みなさんこんにちは。
歴史マニアFPの牧原です。今回は、次回の「お金と世界史」講座のテーマ、
毛利元就が調べるほどにめちゃくちゃ面白かったので、その一部をご紹介します。
毛利元就は、1497年に安芸高田市の鈴尾城にて生まれます。
その後父と母が亡くなり貧しい暮らしを続けますが、20歳ごろ、毛利の家督を継いでいた
兄、興元がなくなり、その子幸松丸の後見として元就は活躍します。
…ですが、しばらくして幸松丸は亡くなってしまいます。
原因は戦の時に生首を見ちゃったからだそうです。
ショッキングなものは子供に見せちゃダメですね。
その後、毛利本家の後継者となった元就は、中国地方で覇を競っていた大内氏と尼子氏の
間を権謀術数を尽くして生き残っていきます。
この辺は後に備前エリアで活躍する宇喜多氏と似たものが感じられます。
巨大勢力の間を生きぬくのは並々ならぬことなんですね。
そんな元就に最大のピンチがやってきます。
主家である大内義隆を、家臣である陶隆房(晴賢)が大寧寺の変で殺害します。
※これも元就の謀略という説もあります。
主家を乗っ取った陶晴賢は、その矛先を毛利に向け、安芸の国へと大軍を率いて侵攻してきたのでした。
当時の毛利氏はすでに吉川氏、小早川氏の両川体制を引いていたとはいえ、
陶氏の勢力と比較するとまだまだ劣勢でした。
実際に集められた軍勢も陶:2万 毛利:4千といわれ数倍の差があったのです。
まともに戦っては勝ち目はない…
元就はここから3人の息子たちを中心に策謀を練り上げていきます。
それは毛利の家運を賭けた、乾坤一擲の大博奕でした。
結果的には、陶晴賢軍を壊滅させ、晴賢自身を自害させるに及ぶ大戦果を挙げることとなります。
元就はどのような策を事前に用意したのか?
何が博奕で、なぜ元就はそのような決断をしたのか?
謀多きは勝ち、少なきは負ける
このへんの胸が熱くなる話はぜひ「お金と世界史」講座を受けてみてください。
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