羽柴秀吉と経済戦争 中編

みなさん、こんにちは。

岡山ファイナンシャルプランナーズの歴史担当、牧原です。

今回は、高松城水攻めの最中に「本能寺の変」が発生した後の、

秀吉の尋常じゃない武将っぷりをご紹介いたしたいと思います。

前回の記事はコチラから

 

それは後に「中国大返し」と言われ、

日本史上屈指の大強行軍

とも言われています。

なんせ、1日で20km進めたら結構早い当時の軍隊で、

1日70km

も移動するんですよ。光秀の敗因は、この尋常じゃないスピードの計算違いでしょうね。

岡山から京都山崎までは約200km

 

軍事力では優位に立っているというものの、いまだ強大な毛利家。

その、毛利家と対峙している最中に、

信長死す

との報がもたらされます。

※一説によると、毛利方へと本能寺の変を知らせようとしていた明智軍の密使を

秀吉方が捕らえたらしいです。なんでそんな捕まるようなところ走ってるんだ!

 

秀吉は一時愕然としたようですが、軍師、黒田官兵衛の献策によって立ち直ります。

その策とはすなわち、

・速攻で毛利との和睦をまとめる

・ほかの将軍たちが帰ってくる前に、迅速に逆賊(彼的には)明智を撃つ

・そのあと織田家の実権を握る

 

裏切者である明智を討った者が、信長の後継者争いでリードできますから当然ですね。

しかし、この策がうまくいくには次の条件がそろう必要があります。

羽柴軍が無事に京都までいける条件

1 毛利がすぐに和議に応じて、しかも追ってこない

2 最近仲間になった宇喜多が裏切らない

3 明智軍がいる京都までなるはやで返る

 

1つずつ考えてみましょう。

【1 毛利がすぐに和議に応じて、しかも追ってこない】

いきなりかなり難しい問題です。

まず、軍事的には逃げる敵を追撃するのは定石で、特に攻勢を受けて戦線が後退していた

毛利としては、ここで秀吉を追撃し、あわよくば討ち取ることで大きく領地を回復させる

ことが可能だと思っても不思議ではありません。

 

実際、追撃するしないで、吉川元春と小早川隆景がかなり揉めたようです。

結論として。追撃はありませんでした

実は本能寺の変を知ったタイミングに羽柴・毛利間で1日のラグがあったのです。

このラグを利用して、羽柴軍は早急に軍をまとめて撤退し、しかも作った堤を切ってあたりを泥濘と化した

とか。芸が細かいですね。(周囲の百姓にはたまったもんじゃないでしょうが)

 

このラグが生じたのは、羽柴軍がたまたま密使を捕縛したからだけではなく、

秀吉はかなりのスパイを信長近くに放っていたようです。信長の状況を常に把握するために、

そのようなことをしたのでしょう。そのため京都の情報がいち早く伝わったのです。

まさに、情報の速さが生死を分けた例です。

前もって準備しておくと、思わぬ収穫があるかもしれないんですね。

 

【2 最近仲間になった宇喜多が裏切らない】

当時の備前周辺には宇喜多という、毛利織田から比べると小さいですが、

それなりの勢力をもった一族がおりました。

実はこの宇喜多がなかなかの曲者で、かつて毛利と織田の間で同盟をシーソーのように

行ったり来たりしていたんです。宇喜多家の名誉のために言っておくと、当時はそういった行為は

割とよく見られました。大河ドラマで有名になった真田昌幸なんかがそんな感じです。

 

その宇喜多が、これ幸いと織田を裏切って秀吉を捕縛し、毛利に売ったらどうでしょうか。

毛利としては万々歳。労せずして敵の大将を得ることができます。

宇喜多も莫大な恩賞を毛利からもらえるかもしれません。

まして、宇喜多は何度か秀吉に煮え湯を飲まされておりましたので、千載一遇のチャンス…

と思ってもおかしくはありません。

しかもその宇喜多領を通過せねば、秀吉の領地に戻れないのです。

 

そんな逆境で、秀吉はとんでもない手を打ってました。

なんと、宇喜多の跡取りを人質にしていたのです。

その名は宇喜多八郎、のちの五大老宇喜多秀家です。

一説には、当時10歳の彼と同じ籠に乗り、宇喜多領を離れたときに解放したとか。

これでは宇喜多は手を出せませんね。

たまたまなのか、狙ってやってたのかわかりませんが、ともかくすごい。

 

【3 明智軍がいる京都までなるはやで返る】

最も困難なのはこれです。

まず、前述のとおり当時の軍は1日20km程度の進軍速度です。

1日70kmも走破して(しかも悪天候)しまうというのは、尋常じゃありません。

しかも、

本拠地姫路城に到着した秀吉軍は、6月9日朝まで滞留し、休養をとった。休養にあてた一日、秀吉は姫路城の蔵奉行を召集し、

城内に備蓄してあった金銭・米穀の数量を調べさせ、

これらを身分に応じて配下の将兵に悉く分与したといわれる。

これは、姫路籠城の選択肢はないこと、目的は光秀討伐以外ないことを鮮明にし、決死の姿勢を示した上で、

負けても姫路へは帰れないが、勝てば更なる恩賞も期待できることを示唆しての処置であったと考えられる。

 

どうでしょうか。この気前の良さ!

この大将について勝てば、もっと褒美をもらえるぞ~

という兵卒の心理を巧みに突いたんですね。これは士気もあがりますよ。

さらには、「御座所という信長が備中まで来るときのための備蓄品を用意した休憩ポイントを

作っていたのを利用したともいわれています。つくづく、用意周到ですね。

 

【まとめ】

いかがだったでしょうか。

事前の用意周到さに加え、臨機応変さ、切り替えの速さ、兵卒の心理掌握の巧みさ…

どれをとっても並みの武将ではないことがわかります。

それから、実は岡山って結構すごい歴史の舞台なのね~!ということがわかってもらえると嬉しいです。

次回は、山崎の合戦で明智軍と雌雄を決します。

(まだやるんかい!という声も聞こえてきそうですが、やります!)

 

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2022-08-31