FPが考える「神君伊賀越え」(前編)

みなさんこんにちは。

歴史オタ兼ファイナンシャルプランナーの牧原です。

みなさんはNHK大河の「どうする家康」ご覧になっておられるでしょうか?

私は毎週欠かさず見ておりまして、

世の中にはやれ「史実と違う」だの「ファンタジー大河」だの

言われておりますが、そもそもこれは歴史上の人物を主人公にしたエンタメだと

割り切って見ることをお勧めします(笑)

 

さてさて、去る7月30日の放送分は、徳川家康が人生で迎えた3つの危機のひとつ、

伊賀越え

がテーマとなっていました。

これをリスクとリターンというFPっぽい視点で考えたいと思います。

 

敵中孤立

 

1582年6月2日、京都本能寺にて織田信長は明智光秀によって討たれます。

日本史に影響を与えた謀反としては最大級かと思いますが、

この当時家康は見物に来ていました。当時の堺は、南蛮貿易の中心地として国際港だったようです。

当然、堺は信長の存命中は彼の勢力圏内にありますので、家康にとって危害を加えるものはおらず、

少ない人数の供(といっても30人)で十分でした。

 

ところが、信長が光秀によって弑逆されてのちは、権力の空白地域になります。

また信長を討った光秀が、信長の右腕としての地位を盤石にしていた家康を放っておくはずがありません。

光秀としては、ライバルを消すチャンスですので、当然家康はその命を狙われてしまいます。

光秀の分勢はおよそ1万人。歴戦の猛者である本多忠勝がいても、30人対10,000人はちょっと無理

があるでしょう。(いや、それでももしかしたら本多忠勝なら?と思ってしまうところが彼のすごいところ)

 

家康の本拠地は、三河地方、今の愛知県東部ですから、大阪から愛知県まで逃げ切らねばなりません。

その距離、240km

羽柴秀吉が備中高松から京山崎まで駆け抜けた同じ距離を逃げねばなりませんでした。

しかもその道中は信長の死後は光秀の勢力圏にあり、途中に休憩所のあった秀吉と違って

物資等の補給も現地調達となるでしょうし、安全な旅行と思ってきているでしょうから、

路銀もそれほどなかったにちがいありません。

 

敵中をつっきる、物資の補充が見込めない、懐柔の資金もない…

 

こんな絶望的な状況です。

我慢強さで知られる家康は当初どうしたかというと…

 

 

 

諦めようとしました(笑)

 

京都知恩院で、追い腹(信長の後追い自殺)をしようとしたそうです。

それを家臣(本多忠勝ら)に止められたのだとか。

後に神として祭られる家康も、これはどうにもならんと思ったんでしょうかね。

 

なんだか私たちの人生もまさかの出来事でこんな状況になることもありそう。

なので、絶望の淵の諦めから生きることに舵を切り替えた、

家康の行動から学べることもあるかもしれません。

 

危険な伊賀国

 

家康一行(30人くらい)は複数のルートを考案したようですが、

結局、堺~大阪四条畷~京都宇治田原~甲賀~伊賀柘植~鈴鹿(海路)~三河

というルートをたどることになります。このルート、いまだ以って解明されておらず、

諸説あることにご留意ください。

 

そしてこの忍者で有名な伊賀の国ですが、信長の死の直前に苛烈きわまる

伊賀攻め

が行われており、甚大な被害を受けた伊賀の人々の信長への恨みは相当に深かったということです。

そこを通る信長の右腕家康…無事で済むはずがありません。

家康がなぜ、この危険極まりないルートを通ったのかという理由を推測すると、

1 直前で穴山信君(武田信玄のいとこ)が落ち武者刈りで殺害されていること

2 伊賀といっても全員が反信長ではなく懐柔の可能性もあること

3 海路を取れば追手や落ち武者刈りにあう可能性も低くなること

が、あげられると思います。

不安定な地域を抜けるリスクは大きいですが、それだけ光秀には見つかりにくいので

生き延びる可能性(リターン)も大きいと言えます。

ここでは、生き残ることが最大の目的となるでしょうから、その可能性が少しでも高いほうへ

賭けるのが合理的でしょう。

 

もし、ここで家康がリスクをとる決断ができず、時間を空費していたら?

光秀の追手か、懸賞金目当ての落ち武者刈りに殺害されていたでしょう。

そうすれば私たちの知る江戸幕府はなかったのかもしれませんね。

 

この話の続きは後編で。

 

さて、あなたは適切なリスクを取っているでしょうか?

過度にリスクを避けて時間を空費していませんか?

資産運用のご相談は歴史オタクで資産運用が専門のFP牧原にお任せください。

 

 

2023-08-07