みなさんこんにちは!
今回はお待ちかね(?)の経済&歴史記事です。
以前ウクライナの記事を書いたのですが、「もっと書いてほしい!」
という稀有なご意見をいただきましたので、時々歴史と地理を混ぜていこうかと思います。
さて、今回取り上げる「羽柴秀吉」ですが、「あたし、歴史に興味ないわよ」って方でも、
ほぼ確実に名前は知っているのではないでしょうか?
そうですね。のちの天下人豊臣秀吉です。
彼が、織田信長に仕えていたことや晩年の迷走は特に有名ですが、
若かりし頃の彼の業績については案外知られていないのではないでしょうか。
実は、若い頃の彼は、まさに規格外の武将。
当時の武将の常識を超えた「経済戦争」をやっていたんですね。
【備中高松城水攻め】と【中国大返し】
岡山県に非常に関係の深い2つの事例から、彼の尋常じゃないところを紹介いたします。
【備中高松城水攻め】
信長の草履を温めた話、墨俣一夜城、金ケ崎での殿軍などの活躍で名を挙げた秀吉ですが、
順当に出世し、対毛利戦線の指揮官に抜擢され、三木城攻め、鳥取城攻めと成功し、
ついに備前までやってきました。
毛利王国の懐深くまで食い込んできました。
毛利方も織田軍に押されまくっていたので、「ここを抜かれてはならじ」
と、いくつもの城を作って防衛ラインを構築します。死守の構えです。
これらの城を「境目七城」といいます。
中でも、周囲を沼や湿地帯に囲まれた備中高松城は難攻不落。
織田軍の大軍を活かすことができません。
沼地では足場が悪く、弓や鉄砲の格好の的になるので防衛側に有利なため、
さしもの秀吉も攻めあぐねたといいます。
そんななか、信長から秀吉に手紙が届きます。
はやく備中高松城を落とせ(怒)
エキセントリック上司の信長は機嫌を損ねると何するかわかりません。
一刻も早く、城を落とさねば…
そんな秀吉が考えた(黒田官兵衛の献策とも)のが、前代未聞の水攻めです。
人口の堤防を作り、周囲の河川を決壊させて、城をまるごと水没させる…
言うは易しですが、実際に成功させるとなると困難を窮めるでしょう。
しかし、彼はそれをやってのけます。
この策を受け入れた秀吉は、直ちに水攻めに向けた築堤に着手した。
城の近くを流れる足守川の東・蛙ヶ鼻から全長約3km、高さ約7mの堤防を築き、
そこに足守川の水を引き込むことで、備中高松城を水の中に取り残された浮城にしてしまったのだ。
この築堤工事はわずか12日間で完成したと伝えられている。
援軍に駆け付けた毛利氏側の武将、小早川隆景、吉川元春らは、孤立する備中高松城の状況を前に為す術もなかった。
参照元URLはコチラ
重機もない時代に、にわかには信じがたいですが、事実です。
これだけの短期間で完成させるために秀吉は人間心理を突いた方法で完成させます。
なんと、
土とお金を交換したのです。
これには周辺住民も大喜びで参加したとか。
おかげで堤防を作るための土嚢が驚くほどの速さで集まります。
わたしも土とお金を替えてくれるなら、喜んでもっていきますよ(笑)
どうすれば、人は喜んで動いてくれるのか、それを深く理解していた秀吉の慧眼には驚嘆します。
並みの武将であれば、武力を傘に着て周辺住民を徴発し、
強制的に労働させる
のが関の山でしょう。
利をもって人を動かすことのできる秀吉。やはり並ではありませんね。
人心を利用した工事はうまくいき、防衛ラインの中核、難攻不落を誇った
備中高松城は陸の孤島となり果てます。周りは厳重に織田方が囲っているので、
毛利もうかつには手出しできません。
食料や武具の補給もままならない中、
ついに守将、清水宗治は自らの命と引き換えに降伏を申し出ます。
時に天正10年(1582年)6月のことでした。
無事に、備中高松城を陥落させ、毛利との和平交渉に臨みつつあった秀吉。
そんな中、驚愕の知らせが舞い込んできます。
京にて織田信長が暗殺される
このときの秀吉の様子は正確には伝わっていませんが、動揺したのは間違いないでしょう。
ここからの秀吉も尋常ではありませんでした。
次回は「中国大返し」で秀吉の優れた経済センスを見ていきましょう。