みなさん、こんにちは。
岡山ファイナンシャルプランナーズの歴史担当、牧原です。
今回は、高松城水攻めの最中に「本能寺の変」が発生した後の、
京都山崎まで猛ダッシュで取って返した秀吉の情報戦をご紹介いたしたいと思います。
【過去の記事はコチラから】
その前に前回の「中国大返し」の振り返りです。
日本史上屈指の大強行軍
とも言われ、1日で20km進めたら結構早い当時の軍隊で、
1日70km
も移動した秀吉。光秀の敗因は、この尋常じゃないスピードの計算違いでした。
岡山から京都山崎までは約200km
秀吉は、ただ単に京都まで走って返ったわけではありません。
途中からは行軍速度を落とし、光秀の動向を探りつつ、情報収集しながら移動します。
そして、光秀に味方しそうな他の武将に、文を送ります。
一方で光秀もまた京周辺の武将に仲間になるように文を送っていました。
織田信孝・丹羽長秀、池田恒興らに尼崎着陣を伝えた書状において秀吉は、
今回の戦いは「逆賊明智光秀を討つための義戦である」ということを強調している。
6月12日、秀吉軍は尼崎から西国街道をそのまま進み富田(大阪府高槻市)に着陣したが、
秀吉の宣伝は功を奏し、恒興、中川清秀、高山右近ら摂津の諸将が相次いで秀吉陣営にはせ参じた。
(Wikipediaより)
どうやら秀吉は前もって、
信長様は落ち延びて生きている
という偽情報も流していたようです。
これはほかの武将たちからしたら、
信長様がほんとに生きていて光秀についたと知れたらヤバい…!
と思うでしょう。ネットやSNSのない時代ですから情報も錯綜しますよね(いまでも錯綜してますが)
そのため、光秀の誘いにも簡単には乗れない状況が生じました。
そこに来て、「信長様の敵討ち」を標榜する秀吉軍が電光石火でやってくるのです。
あなたなら、どちらに加勢しますか?
多くの武将は秀吉を選んだようです。
その結果、秀吉は光秀に対して兵力差3倍の軍勢を用意することができました。
こういう勝ちそうな側に乗っかるのを「バンドワゴン効果」、または「勝ち馬に乗る」といいます。
生き残ってナンボの戦国時代。選択は常にリアリズムによって非情になされます。
光秀は、山崎の合戦に敗れ落ち延びたところを小栗栖で農民によって殺害されたといわれています。
いかがだったでしょうか?
三回にわたってご紹介してきた、羽柴秀吉の戦国武将としての尋常ではない冴え。
歴史の教科書ではさらっと書かれることも多いですし、秀吉のイメージとしては剽軽なノリの軽い武将といった
ものが多くの人に受け入れられていると思います。
ところが、実際の羽柴秀吉は、
経済の仕組みを完全に理解し、
人間心理を巧みに利用し、
重要な決断を瞬時に行い、
高度な情報戦を駆使することのできる極めて能力の高い武将だったのです。
のちに徳川家康と激突する小牧長久手の戦いでも彼の能力はいかんなく発揮され、
戦名人の家康すら凌駕するセンスを発揮します。
金銭感覚と情報の重要性
これらを理解することは、秀吉のようにとまではいかなくとも、
我々にとっても豊かで自分らしい人生を送るのに学ぶ点が多いと私は思います。
そんな彼が、朝鮮の役や後継者問題で晩節を汚してしまったのは何とも残念なことですね。
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